本尊さま
曹洞宗の本尊さまは、「南無釈迦牟尼仏」(なむしゃかむにぶつ)お釈迦さまであります。
お寺によっては観音(かんのん)さま、薬師(やくし)さま、地蔵さま等を本尊としておまつりしてありますがそれは、そのお寺を建てた由来や、その当時の土地の事情による特別のものでありまして、曹洞宗の本尊さまという時は、お釈迦さまであります。
ですから、檀家のお仏壇の本尊さまもお釈迦さまをおまつりする事になります。
拝む時は「南無釈迦牟尼仏」とお唱えいたします。
お釈迦さまは今から2500余年前、インドのカピラ国の王子としてお生まれになり、成年になられてから御妃(おきさき)を迎えられ「ラーフラ」というお子さままでできましたが、世の人々を生老病死(しょうろうびょうし)の4つの苦しみから救う為に王子の位も御妃もお子さまも一切の絆を断ち切り、山に登って修行者の仲間入りをされました。
そして6年という長い年月、想像すらできないほどの激しい荒修行を重ね身体はヤセ細り眼はくぼみ、見るも痛々しいお姿に変わられましたが、いっこうにお心を満たす事ができず、ついに荒修行にみきりをつけ尼連禅(にれんぜん)河の流れでお身体を洗い浄め、スジャータという娘のささげた乳糜(にゅうび)を受けて元気を快復され、菩提樹(ぼだいじゅ)という木のもとに吉祥草というやわらかい草を敷き「坐禅の行」に入られたのであります。
幾日か経った12月8日の暁(あかつき)、星空をごらんになると同時に実に偉大なそれは誰も一度も経験した事のない尊い心境に達せられました。
お釈迦まさは、さとりを開かれたのであります。
仏さまになられたのであります。
お釈迦さまは、その時の心境を「我と大地の有情(うじょう)と同時に成道(じょうどう)す」と述べておられます。
これは、お釈迦さまが仏さまになられた事によって世の中の苦しむ人、悩む人、貧しい人も仏になる事ができた。
いや、人間ばかりではない、鳥や獣、草木までも仏になる事ができたという意味であります。
お釈迦さまは、クシナーラ城外で御年80歳で生涯を終えられましたが仏になられて以来、1日、半時の休みもなく、身体の続く限りありがたい法を説き、多くの人々を教え導きくだされました。
お釈迦さまの法門は、俗に84,000と言い5,000余の経巻と言いますが実際には、数えつくせない法門であり、数えきれないお経であります。
お釈迦さまが伝えくだされた「み教え」は、世の光となり、力となり、救いとなって人々の心にしみ込み、人々を導き、永遠に消える事なくその輝きをます事でありましょう。
高祖さま
永平寺 承陽殿
高祖さまは、承陽(じょうよう)大師、仏性伝東国師(ぶつしょうでんとうこくし)、仏法国師のご謚号(しごう:天皇からのおくり名)があります。
御名は、道元(希玄とも申された)と申され一般には、道元禅師さまと申し上げています。
土御門(つちみかど)天皇の正治2年(1200)1月2日、太陽暦では1月26日に京都でお生まれになりました。
御父は内大臣久我通親(こがみちちか)公で、御母は摂政藤原基房(ふじわらもとふさ)公の娘であります。
3歳のとき御父が亡くなられ、8歳のとき御母も亡くなられました。
14歳のとき比叡山(ひえいざん)の公円僧正(こうえんそうじょう)について得度、お弟子になられ天台宗の教えを学んでおられましたが、大きな疑問にぶつかりその解決がつかず、京都の建仁(けんにん)寺に栄西(えいさい)禅師さまを訪ね、ここで修行いたされる事になりました。
それは、御年15歳の時の事であります。
栄西禅師さまはその翌年、亡くなられたのでお弟子の明全和尚(みょうぜんおしょう)さまについて修行を励まれました。
24歳の時、明全和尚さまと共に中国に渡り、5ヵ年の長い間ご修行を重ねられ、天童(てんどう)山の如浄(にょじょう)禅師のもとで「さとり」をひらかれ、お釈迦さまから直々に伝わった正法を相続、51代目の祖師におなりになり28歳の秋、ご帰国になられたのであります。
ご帰国後は一時、建仁寺でお過ごしになりましたが34歳の時、宇治の興聖(こうしょう)寺を建立あそばされ、ここで11年もの長い間、正法をおひろめになりました。
道元禅師さま
44歳の時、越前の領主、波多野義重(はたのよししげ)公の願いを入れ、越前におもむかれその翌年、大伽藍(だいがらん)を建立いたされました。
これが今の大本山永平寺であります。
建長5年、御年54歳の7月、永平寺の法席を弧雲(こうん)禅師さまにおゆずりになり8月5日、病気療養の為、お山を出て京都におもむかれ高辻西洞院(たかつじにしのとういん)の覚念(かくねん)の宅のとどまれましたが、その月の28日、太陽暦では9月29日、ついにお亡くなりになったのであります。
高祖さまは、わずか54年の短い生涯でありましたが、そのみ教えは深く広く書き残された「正法眼蔵」(しょうぽうげんぞう)をはじめ100余巻にのぼるご著書は、世界的な名著として知られているばかりでなく、その法徳は今や世界の人々の上にまで輝いています。
太祖さま
総持寺
太祖さまは、常済(じょうさい)大師、弘徳円明(こうとくえんみょう)国師、仏慈(ぶつじ)禅師のご謚号(しごう)があります。
その名は瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)と申され、一般には瑩山禅師さまとお呼び申し上げています。
太祖さまは、亀山天皇の文永5年(1268)10月8日、太陽暦では11月21日、越前国多禰(たね)の庄でお生まれになりました。
御父は、土地の豪族瓜生氏(うりゅうし)であります。
父母共に信心深い方で子どものないのを悲しみ、多禰の観音さまに祈願を込め、その霊験によって生まれられたのが太祖さまであると言われています。
8歳のとき永平寺にあがられ、13歳のとき孤雲(こうん)禅師さまについて得度されましたが、その年、孤雲禅師さまがお亡くなりになったので徹通(てつつう)禅師さまをお師匠さまとして修行に励まれました。
16歳のとき諸国修行に出られ、国々の禅門の偉い方々の教えを受け、また比叡山(ひえいざん)に登って学問を修められました。
21歳のときいったん、師の徹通禅師さまのもとに帰られ厳しい修行に励まれること7年、28歳の正月14日、ついに「さとり」をひらかれお釈迦さまから直々伝えられた正法を相続され、54代目の祖師におなりになりました。
29歳で阿波国の郡守から請待され、その地に城満(じょうまん)寺をひらかれ、35歳で加賀の大乗(だいじょう)寺の師の後をお継ぎになり、45歳で能登の永光(ようこう)寺をおひらきになりました。
御年54歳の4月、能登国鳳至郡櫛比(ふげしぐんくしび)の庄の諸嶽寺定賢律師(しょがくじじょうけんりつし)の願いを入れ、その寺にお入りになり説法の盛義をあげ、諸嶽山総持寺とあらためられました。
瑩山禅師さま
これが今の大本山総持寺であります。
正中元年(1324)8月、総持寺の席を峨山(がさん)禅師さまにゆずられ、自らは永光寺にお移りになり正中2年、御年58歳の8月15日、太陽暦では9月29日にお亡くなりになりました。
太祖さまのご生涯は、高祖さまよ同様、あまり長いご生涯ではありませんでしたが、そのみ教えとして示されたものに「伝光録」(でんこうろく)5巻のほか十数巻にのぼるご著書があります。
また、すぐれた多数のお弟子を育てその法徳は全国に広がり、わが曹洞宗が今日のように盛大になったのは、ひとえに太祖さまのお力のしからしむる所であります。