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| 三具足 |
お寺の本堂や家庭の仏壇には、様々な仏具が備えられています。
そしてそれぞれに深い意味をもっております。
仏具の主なものに、三具足(さんぐそく)又は、五具足(ごぐそく)、五供養の用具、鳴らし物があります。
まず三具足(左写真)とは、香炉・花(華)立・燭台をいい、花と灯それぞれ1対をひとつずつ数えると五具足になります。
また五供養に必要な用具は、霊膳(ご飯を盛る)、茶湯器(お茶・蜜湯)、花立、燭台、香炉です。
鳴らし物には、カネや木魚があります。
これらの仏具の中でも禅寺にとって欠く事のできないのが鳴らし物です。
禅の修業では、特に沈黙を重んじ私語を禁じます。
したがって物事を伝達するのは、人間の言葉よりも鳴らし物の音だとさえいえるでしょう。
時を知らせるにも、朝昼晩の梵鐘(ぼんしょう)、食事などを告げる雲板(うんばん)、作業をはじめる普請鼓(ふしんく)、お経の調子をとる木魚、お経の時に打つカネと、実に色々な種類があります。
その音によって修行の深さが知れる、とまで言われているのです。
仏壇のカネは、おまつりしてある仏さまへの挨拶を込めて3つ鳴らします。
それにしても、生ぐさをきらうお寺に、何故木魚という魚がいるのでしょうか。
定説ではありません。しかし、魚が昼も夜も目をあけている事から、夜も寝ずに勉学にはげむ戒めとした、という説もあります。
このように、仏具はただの道具ではありません。
仏さまそのものとして大事にしたいものです。
「わが目の玉のように大切にせよ」と道元禅師は、教えられています。 |
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私達は、仏さまやお墓の前でごく普通に手を合わせます。
これはキリスト教やイスラム教にない仏教独特のかたちであり、日本の遠い祖先から伝えられた心のあらわれでもあります。
その時、右手は仏さま、左手は衆生(しゅじょう)つまり私達をあらわし、その両方がひとつになる姿が合掌(がっしょう)と考えられます。
「右、仏(ほとけ)、左、衆生と合わす手の内ぞゆかしき南無の一声」という歌もあります。
ただし右手だけが仏さまのように汚れていない、と考える訳ではありません。
どちらの手も親指、人指し指、中指を「浄指」(じょうし)と申します。
合掌の手は、5本の指をきちんと揃え、指先を鼻の高さ、一握り前辺りに上げます。
合掌という言葉の通り、両方の手のひらをピッタリ合わせる事が大切です。
礼拝するかたちにも是非、注意したいものです。
ただ首だけを曲げる人、背をかがめるだけの人がありますが、見た目にも美しいとは言えません。
腰から真っ直ぐに傾けてお辞儀をしましょう。
この時、お数珠(じゅず)を親指と人指し指の間に、又は左の手首にかけて合掌いたします。
もともと数珠は、お釈迦さまが悟りをひらかれた時、頭上にあった菩提樹(ぼだいじゅ)の実を紐(ひも)に通したもので、実を1つずつ指でまさぐっては1回ずつ仏さまの名を唱えたものでした。
そこで数珠、つまり数をかぞえる玉と呼ばれたのです。
やがて、菩提樹の実はきれいな石やガラス玉などにかわり、その後も108、つまり人間の煩悩(ぼんのう)【=おろかしい欲望】の数になります。
けれども108の数珠はあまり長過ぎたのでしょう、次第にその半分、またその半分と数が減り、6分の1の18個の珠が一番多く用いられています。
よく数珠をガチャガチャ擦り合わせる人がいますが、決して美しい礼拝とは言えません。
礼拝のあるところ仏法あり、という意味の事を道元禅師は教えておられます。
礼拝は仏法の根本と考え、心を込めて行いたいものです。
礼拝も焼香も、お経を唱えるのも全て禅の行いである事を忘れないで下さい。 |
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| 経本の持ち方側面 |
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| 経本の持ち方正面 |
お経の一番初めは、一仏両祖へむかってあげる「般若心経」(はんにゃしんぎょう)です。
「般若」とは、悟りを得る仏の智恵という意味。「心」とは中心、最も重要なのです。「経」とはタテ系。
お釈迦さまの教えを貫く基本的な考え方をさします。
ですから「般若心経」とは、お釈迦さまの教えの要点を短くまとめたものなのです。
漢字で262字しかありません。
その内容を大づかみにまとめますと、「しっかりと世の中を見つめれば、全ては仮の姿だと分るだろう。こういうものに迷ったり、心を煩(わずら)わされる事もなくそれを越えた真実のものを見、より大きく、より深く、より広やかに生きる事が大切だ」という事になるでしょう。
お経の結びには必ず回向(えこう)というお唱えがあります。
「般若心経」の場合、一仏両祖への回向に続いて「集むるところの功徳(くどく)は○○家先祖代々・・・・・の為に回向し、報地(ほうち)を荘厳(しょうこん)す・・・・・」と唱えられます。
法要を営みお経を唱える事は、生きている私達が仏さまを賛(たた)え、その教えを守り行う事を誓う事です。
それによって仏さまの恵みを今は亡き故人へ回し向け(回向し)、はなむけにする(荘厳する)のです。
けれども、こうした恵みを頂く為にだけ、ご法事を営むのではありません。
禅の精神から言えば何も恵みや報いを求めるのではなく、ひたすらお釈迦さまに合掌-礼拝-お経を読む事によって心が静まり、真実が体得されるのです、
続いて様々なお経が唱えられますが、一番親しまれているものの1つが「修証義」(しゅしょうぎ)でしょう。
これは、道元禅師が書かれた「正法眼蔵」(しょうぽうげんぞう)という95巻の本の中の教えを集め、曹洞宗の教義と仏教の根本原理を示したものです。
その内容は、まず世の中の道理、人間のあり方が述べられています【総序(そうじょ)】。
次に、仏の子としてこれで良いかと反省する【懺悔滅罪(さんげめつざい)】。
それによって罪が消え、素直になって教えを受ければ、もともと具っている仏としての本性が表れ【受戒入位(じゅかいにゅうい)】。
その結果、他人の為に何かしてあげずにはいられなくなり【発願利生(はつがんりしょう)】。
心からの感謝と合掌の生活を忘れなければ、充実した日々が送れる【行持報恩(ぎょうじほうおん)】-----と考えています。
そこで説かれた様々な戒め、例えば「悪い事は一切やらない」「人々の為に努力する」といった教えを実行する事は、坐禅修行と少しも変わらぬ立派な禅の行いです。
これを禅戒一如(ぜんかいいちにょ)と申しますが禅の生活とは、このように日常の身近な事から始まるのです。 |